ナポリに数ある広場の中でも歴史的に重要な広場の一つがこのメルカート広場(Piazza Mercato)です。
現在では広場はメルカート広場とカルミネ広場の2つに分かれていますが、以前はひとつの広場でした。
メルカート広場の歴史
13世紀、アンジュー家によってこの広場は物の売買や交換などが行われる商業の中心として発展し、ナポリ人にとって日常生活での欠かせない場所となりました。
その一方で、多くの血が流された処刑場や、反乱と革命の中心地としての一面ももっています。
幼いコッラディーノ シチリア王の公開処刑
12世紀後半から13世紀にかけてシチリア半島からナポリにかけて統治していたホーエンシュタウフェン朝は、フランスよりイタリアに侵攻してきたアンジュー家シャルル1世(CarloⅠd'Angiò)によって滅びの一途を辿ります。
1266年当時まだ幼かったコッラディーノに変わり実質的なシチリア王であったマンフレディがベネヴェントの戦いにてシャルル1世によって討たれると、その2年後にはコッラディーノも戦いに敗れ、逃亡しようとするものの捕らえられます。
シャルル1世は1268年10月29日、当時まだ16歳という若さのコッラディーノをメルカート広場にて処刑し、ホーエンシュタウフェン家を滅亡させました。この不条理で残忍なコッラディーノの処刑は多くのナポリ市民の反感を買うこととなります。
処刑されたコッラディーノとその使いの遺体は近くの堀へと(海という説あり)投げ捨てられますが、息子が囚われたと聞いて駆け付けたコッラディーノの母エリザベッタ(Elisabetta di Wittelsbach)の祈りと哀れに思うナポリ市民により一部の遺体は回収され、今でもカルミネ教会内に記念碑とともに保管されています。
マサニエッロと市民革命
スペイン領属時代、メルカート広場の周辺で生まれ育った魚商人マサニエッロ(Masaniello、本名Tommaso Aniello)は、軍資金調達のため果物税などで市民から高い税金を取り立てるスペイン総督に対して反乱を起こしました。
抱えていた不満が一気に爆発した市民は、王宮に侵入し、貴族の館や牢獄を次々と破壊するなど、暴動は短期間で広範囲に広がります。民衆から絶大な支持を得たマサニエッロは総司令官として一時的にナポリのトップに立ちますが、革命からわずか10日後の1647年7月16日、騎馬パレード中に仲間の一団によってサンタマリア・カルミネ教会の一室に連れていかれ、暗殺されます。(暗殺された理由については、薬により気が狂っていたためとされることが多い)
その後市民の反乱は続くものの、のちにスペイン軍によって鎮圧されました。
広場内のみどころ
広場内には教会をはじめ、オベリスクなどのモニュメントを見ることができます。またピッツァフリッタも有名で、広場の屋台でピッツァフリッタ専門店がでていることもあります。
子どものためのおもちゃ屋さんも多くあり、クリスマスやベファーナの時期には子どものおもちゃ探しに多くの人で賑わいます。
・Fontane Obelischi
18世紀につくられた商品を運ぶために使われた馬のための給水場を兼ねた2つのオベリスク
・Chieda di Santa Croce
1351年に建てられたサンタクローチェ教会(1781年の火事にて改修)
・Basilica di Santa Maria del Carmine
13世紀半ばにナポリバロック様式で建てられたサンタマリア・カルミネ教会
・ピッツァフリッタや野菜や果物などの露店や、おもちゃなどのメルカート
伝統的なナポリの夏のイベント L'incendio del Campanile
毎年7月16日にはカルメル山の聖母マリアを記念して、お祭りが行われています。この伝統的なお祭りはいつ頃から行われていたのかは定かではありませんが、少なくともマサニエッロの革命の頃にはすでに慣習となっていたと思われます。
"L'incendio del Campanile(鐘塔の火事)"とよばれるこのお祭りは、ナポリにある鐘塔で最も高いサンタマリア・カルミネ教会の75mの鐘塔からまるで塔が燃えているかのように花火があがります。鐘塔が花火のベールに包まるような光景はとても迫力があり、ナポリ市内をはじめ、近郊の街から多くの人たちが集まります。
カルメル山の聖母マリアのイメージが掲げられると燃え上がっていた花火が止み、喝采で包まれます。
Piazza Mercato e Piazza del Carmine
住所: Piazza Mercato, 80133 Napoli NA
最寄り駅: ナポリ中央駅(Napoli Centrale)から徒歩約15分
公式サイト: http://www.santuariocarminemaggiore.it/