人物紹介
シャルルの予期せぬ出世
フランス国王ルイ8世とその妻ブランシュ・ド・カスティーユの末っ子として生まれたシャルルは先に兄弟がいたことから、修道士として生きる運命でした。しかし、シャルルの兄弟たちが早期に命を落としてしまったため、末っ子でありながらも高い位に与ることとなりました。
シャルルが高位に就いたのは妻のベアトリスとの結婚によります。末娘にして、早期に亡くなったプロヴァンス伯である父の財産を相続していたベアトリスは多くの男たちにとって魅力的な女性でした。その中でもアラゴン王ハイメ1世はベアトリスのいる城を取り囲んで迫りましたが、シャルルはそれらの一隊を蹴散らしてベアトリスを我がものとしました。これにて1246年に結婚、プロヴァンス伯を継承し、隆盛な土地を手に入れることとなりました。
1248年に兄であるルイ9世率いる第7回十字軍のエジプト遠征に参戦しましたが、ここで十字軍は敗北、王族のほとんどが捕虜となりました。その2年後の1250年にフランスに戻ってくると、自国内の革命の沈静化や王朝の戦いを通して力をつけていきました。
シャルル・アンジューのイタリア進出
シャルルにイタリア進出のチャンスがやってくるのは1260年代のことです。当時のシチリア王であったマンフレディは力を持っていて、ローマを含めたイタリア全土を支配下に治めようと計画していました。マンフレディの勢力を恐れたローマ教皇ウルバヌス4世は、対抗馬として力のある者を探していたころ、シャルルに目が留まりました。
ローマ教皇からの誘いに応える形で1266年およそ30,000人の兵士を連れてイタリアへ入ると、ベネヴェントの戦いでマンフレディを討ち取り、さらに最後のホーエンシュタウフェン朝シチリア王であったコッラディーノも捕らえ、メルカート広場で公開処刑しました。
シチリアからの撤退とナポリ王国の成立
一度はナポリ、シチリアと南イタリア一帯を支配下に治めたシャルルでしたが、そう長くは続きませんでした。
東ローマ帝国の征服も視野に入れていたシャルルは、国力を上げるために住民から食料を強引に調達したり、多額の税金を徴収させていました。外からやってきたフランス人からのひどい扱いにシチリアでは不満が募り、1282年3月30日の復活祭翌日・パスクエッタにシチリア・パレルモの女性がフランス人に暴行を受けたことをきっかけにその怒りが爆発。フランス人約4000人を虐殺する"シチリアの晩祷"が起こります。
この事件をきっかけにシチリアはアラゴン王ペドロ3世がシチリアを支配することとなり、シャルルはシチリアから撤退せざるを得ない状況となります。
この頃から南イタリアは、アラゴン家が治めるシチリア王国とアンジュー家が治めるナポリ王国のふたつに分かれていきます。なので、シャルルはナポリ王国として最初の王とも呼ばれます。その後シャルルは劣勢を強いられながらも、どうにかシチリアを取り戻せないかとペドロ3世へ一騎打ちを持ちかけるなどしますが、フランスからイタリアに到着してまもなく重い病にかかり1285年1月7日に望みを息子のシャルル2世に託してこの世を去りました。
ナポリ王 シチリア王 | シャルル・アンジュー (カルロ1世) |
家系 | アンジュー家 |
出生ー死去 | 1226年3月21日ー 1285年1月7日(57歳) |
両親 | ルイ8世 ブランシュ・ド・カスティーユ |
妻 | ベアトリス・ディ・プロヴェンツァ マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャ |
子ども | シャルル2世(カルロ2世) エリザベッタ など計7人 |
主な功績
・カステルヌオーヴォ(Castel Nuovo)
・ドゥオーモ(Duomo di Napoli)
・サンロレンツォマッジョーレ教会(Basilica di San Lorenzo Maggiore)