人物紹介
アラゴン海軍との敗戦、捕虜
シャルル・アンジューとベアトリスとの間に生まれたシャルル2世は、1282年シチリアの晩祷によって起きた戦争に参戦することになります。
アラゴン軍とのシチリア晩祷戦争で劣勢に立たされたアンジュー家は、シャルル2世の父である国王シャルル・アンジューがフランスにてアラゴン王ペドロ3世との一騎打ちを企てます。フランスに戻り、一騎打ちの準備と援軍の整備を行う必要のあったシャルル・アンジューは、ナポリを息子のシャルル2世に託します。
「フランスから援軍が来るまで戦うな」と父にきつく忠告されていたシャルル2世ですが、1284年6月5日ナポリ湾に迫ったアラゴン海軍ルッジェーロ・ディ・ラウリア将軍を前にして、戦闘を開始してしまいます。ルッジェーロ将軍はこの戦いを完全に制圧し、シャルル2世も捕虜として捕らえられてしまいました。フランスから援軍を率いてナポリへと向かっていたシャルル・アンジューは航路の途中で息子の敗戦を知り、作戦を立て直すためプーリアに入ります。(翌年に病で死去)
ペドロ3世の息子たち アラゴン家3兄弟との争い
約5年間の捕虜生活を経て、息子ら(ルドヴィコ、ロベルトら)と引き換えに釈放されたシャルル2世は、ナポリ王として即位し、その後も父の望みであったシチリア奪回のために尽力します。1289年にローマ教皇ニコラウス4世からシチリア王として戴冠を受けるなどして、一時は上手く事が進んでいるかのように見えましたが、1291年に和平交渉を行っていたペドロ3世の長男で、当時のアラゴン王のアルフォンソ3世が死去すると、シチリアはその弟で次男のハイメ2世の手に渡ります。
ハイメ2世との間でシチリアを巡り戦いが行われましたが、ハイメ2世はアラゴン王も兼任していたため、アラゴン国内のフランス軍や内乱を鎮めるのに忙しく、1295年にシャルル2世との間でシチリア島の放棄、シャルル2世の息子らの解放、その代わりにサルデーニャ島の獲得やシャルル2世の娘ビアンカとの結婚を盛り込んだ講和条約を結びます。これにてシチリアはシャルル2世のものになるかと思われましたが、ハイメ2世の弟で実質的にシチリアを統治していた三男フェデリーコ3世がシチリア王を宣言、シチリアの民もこれを支持したので、またもシャルル2世はシチリアを手にすることはできませんでした。
シャルル2世とハイメ2世との間で講和条約が結ばれていたため、アラゴン軍からの支援を受けることができないどころか、逆に攻められることさえあったフェデリーコ3世ですが、フェデリーコ率いる軍隊は大奮闘し、シチリアを守り抜きました。1302年についにシャルル2世とフェデリーコ3世の間でカルタベッロッタの和平が行われ、フェデリーコ3世はシャルル2世の娘であるエレオノーラと結婚することになります。そのふたりの間には次のシチリア王となるピエトロ2世が生まれます。
こうしてシチリア奪回はならずとも、アンジュー家の血をシチリアの地に継がせることができたシャルル2世は1309年に死去、その後のナポリの王権は三男のロベルトへと受け継がれます。
ナポリ王 | シャルル2世 (カルロ2世) |
家系 | アンジュー家 |
出生ー死去 | 1254年ー 1309年5月5日(54歳) |
両親 | シャルル・アンジュー ベアトリス・ディ・プロヴェンツァ |
妻 | マリア・ドゥンゲリア |
子ども | カルロ・マルテッロ マルゲリータ ロベルト など計14人 |
主な功績
・ドゥオーモ(Duomo di Napoli)
・サンドメニコ・マッジョーレ教会(Basilica di San Domenico Maggiore)