ナポリの歴史について

南イタリア最大の都市として長い歴史のあるナポリ。

ナポリにはギリシャ人をはじめローマ人、フランス、オーストリア、スペインなど、多種多様な民族と文化が入り、独自の都市として発達してきた背景があります。街には長い歴史を物語る遺跡や建造物が随所に見られ、今も尚、街のシンボルとして存在しています。

唯一無二の絶景の街としても名高いナポリの歴史についてみていきましょう。

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ナポリの起源と伝説

(紀元前6世紀~紀元前327年頃)

ナポリの誕生は紀元前6世紀ごろに遡るといわれています。

当時クーマにて繁栄していたギリシャ移民はその勢力を広げ、メガリデ島(現カステルデッローヴォ)を拠点に町を築きます。

しかし当初はきちんと統制されたポリス(都市)ではなく、ギリシャ本国などとの交易の入り口として使われていた人口の集まりであったと考えられています。当時力を持っていたクーマのギリシャ移民は紀元前475年ごろ防御面に優れたさらに内陸部に新しい都市を建設します、これがネアポリス(新しい都市)の誕生です。また、ネアポリスに対し、元々のメガリデ島周辺はパレポリス(古い都市)と呼ばれました。

その後一時期は交友関係にあったローマとの関係が悪化し、紀元前327年ごろローマ帝国との戦いに敗れローマ帝国の支配下におかれます。

ローマ帝国、新たな部族、ビサンチン帝国の支配

(紀元前327年頃~1130年頃)

ローマ帝国は東西に分割統治され、西ローマ帝国は476年ごろに滅ぶこととなります。

ナポリは東ゴート人、ヴァンダル族、ランゴバルド人などから度々狙われますが、最終的に661年から1137年までの間ビサンチン帝国の支配の下、ナポリ公国として存在することとなります。

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ノルマン人の支配

(1130年頃~1194年頃)

11世紀にはいるとシチリア島にゲルマン人から派生したノルマンディー公国ルッジェーロ1世率いるノルマン人が到来し、シチリア半島を征服し、ルッジェーロ2世を祖とするオートヴィル朝がシチリア王国を建国します。

オートヴィル朝は南イタリア全土へと勢力を広げ、(ベネヴェントのみ教皇領としてのこった)ナポリもオートヴィル朝の支配下へとおかれます。その後グリエルモ1世、グリエルモ2世とつづき、グリエルモ2世が死ぬとルッジェーロ2世の娘コスタンツァがシチリア王女となります。

ホーエンシュタウフェン朝の支配

(1194年頃~1266年頃)

オートヴィル朝のシチリア王女コスタンツァと神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家、ハインリヒ6世の婚姻関係により、ノルマン人によって建てられたオートヴィル朝は実質終わりを迎えます。

その後ハインリヒ6世をはじめその息子フェデリーコ2世、コッラード、コッラディーノ、マンフレディなどによりシチリア、南イタリアは統治されることとなります。フェデリーコ2世はナポリ大学を建てたことでも有名です。

アンジュー家の支配と内紛 ナポリ王国誕生

(1266年頃~1435年頃)

ローマ教皇クレメンス4世はシチリア王マンフレディがローマを脅かす存在になると、フランスアンジュー家のシャルルダンジューをカルロ1世として新たなシチリア王とすることを支持しました。1266年シャルルダンジューはイタリアに進撃し、ベネヴェントの戦いにてマンフレディを討ち、シチリア王として南イタリアを支配します。

しかし間もなくしてシチリアにて島民によるシチリア晩祷戦争をきっかけに、シチリア王であったマンフレディの娘コスタンツァの夫であるアラゴン王ペドロ3世がシチリアに侵攻し、占領。シチリア王国はアンジュー家のナポリ王国とアラゴン家のシチリア王国の2つに分かれることとなります。

その後カルロ1世の息子カルロ2世、その息子ロベルト1世と引き継がれますが、ジョヴァンナ1世がナポリ王女になると、後継者を巡って身内で対立(ジョヴァンナ女王とカルロ3世)。子のいなかったジョヴァンナ1世はルイ1世ダンジュー(ヴァロワアンジュー朝の祖)を次の後継者に決定しますがのちにカルロ3世となる親族カルロ・ディ・ドゥラッツォにより暗殺されます。

これをきっかけにルイ1世アンジューはカルロ3世と激しく争い、その後お互いの子の代でもその戦いは続きます(ルイ2世アンジューのちルイージ2世とラディズラーオ1世)。

トラスタマラ朝の支配

(1442年頃~1516年)

ラディズラーオ1世に代わって女王となったナポリ女王ジョヴァンナ2世は子がいなかったため、アラゴン王アルフォンソ5世を一旦は王位継承者として指名するものの、心変わりして、ルイ3世アンジューを王位継承者として指名します。

その後ルイ3世アンジューは子なくして死ぬと、弟のルネ・ダンジューがレナート1世ナポリ王として受け継ぎます。(ジョヴァンナ女王とレナート1世)

一度はあきらめたアルフォンソ5世ですが、レナート1世の王位継承を期にナポリに攻め込みます(ナポリ継承戦争)。はじめはポンツァ島での戦いで敗北しますが、反ルネ派のナポリ貴族やアラゴン本国の支援もありついに1442年ナポリ王アルフォンソ1世として王位を獲得、トラスタマラ朝によるナポリ統治がはじまります。

その後王位は庶子のフェルディナンド1世アルフォンソ2世と受け継がれますが、アルフォンソ2世が王になった時にはフランス王シャルル8世の侵攻が迫っていました

トラスタマラ朝(スペイン)とヴォロワ朝(フランス)の争い

(1495年頃~1516年頃)

ヴァロワ朝のフランス王シャルル8世は2万五千という大軍を率いてイタリアへと攻め込み、1495年ナポリを征服します。しかしヴェネチア共和国、ローマ教皇、ミラノ公などの同盟軍により、わずか1年でフランスへと逃げ帰る形となりました(第一次イタリア戦争)。

その後アルフォンソ2世の子フェルディナンド2世、叔父のフェデリーコ1世へと王位は継承されますが、フランス王であるルイ12世が再びイタリア侵略を目指し、ナポリを一時支配下にいれます。

それでもコルドバ将軍率いるスペイン(カスティーリャ・アラゴン連合王国)は1504年チェリニョーラの戦いを経てフランス軍を撃退し、結果フェルナンド2世がフェルディナンド3世としてナポリをスペインの属州として支配することになります。

スペイン・ハプスブルク朝による支配

(1516年頃~1700年頃まで)

ナポリ王国はほろびスペインによる植民地化、スペイン領属時代となります。

カスティーリャ王女フアナとハプスブルク家フィリップ美公の長男カルロス1世によるスペイン・ハプスブルク朝がスペインを統治すると、ナポリにおいてもカルロ4世としてスペイン・ハプスブルク朝が支配をします。スペインの支配下におかれ、植民地的収奪をしいられたナポリでは度々市民による反乱がおこります。

代表的な反乱としては1647年に魚商人マサニエッロによって行われた反乱です。マサニエッロはナポリ総司令官として戦陣をきりますが、わずか5日後仲間の一団により暗殺され、その後1年近く続いた反乱もスペイン軍により鎮火されます。

カルロ4世の息子のフェリペ2世(フィリッポ1世)の時代には海外植民地化をすすめ、最盛期を迎えたスペインは「太陽の沈まない国」といわれます。その後フェリペ3世(フィリッポ2世)、フェリペ4世(フィリッポ3世)、カルロス2世(カルロ5世)と代は続きますがカルロス2世は度重なる近親婚により障害をもって生まれることなってしまいます。

スペイン・ブルボン朝による支配

(1700年頃~1707年頃まで)

カルロス2世はその先天性疾患から子どももなく、ブルボン朝第3代のフランス王ルイ14世の孫で、ハプスブルクの血を引くアンジュー公フィリップをスペイン王とすることを受け入れ、遺言に書き残し没しました。

こうしてスペインハプスブルク家によりスペイン統治は終わりをむかえ、フェリペ5世(フィリッポ4世)によるスペイン・ブルボン朝がはじまります。しかし、フランスの勢力拡大をおそれるイギリス、オーストリア、オランダらはフェリペ5世の即位に反対、またスペイン国内でも即位に対して賛否がわかれ、スペイン継承戦争が勃発します。

オーストリア・ハプスブルク朝による支配

(1707年頃~1735年頃まで)

スペイン継承戦争中の1707年にはオーストリア・ハプスブルク朝がナポリに攻め入り占領し、カール6世がナポリ王カルロ6世としてナポリを支配します。

その後スペイン継承戦争がカール6世の神聖ローマ皇帝即位などにより和平にむかうと、1713年にむすばれたユトレヒト条約により正式にナポリはオーストリア・ハプスブルク朝のものとなります。

スペイン・ブルボン朝による支配

(1735年頃~1806年頃まで)

フェリペ5世の息子であるドン・カルロはオーストリアにより占領された元領土であるナポリ、シチリアをポーランド継承戦争中、フランス王ルイ15世の支援のおかげもあり再び奪い返すことに成功します。

カルロはカルロ7世としてナポリ、シチリアを支配します(実際にはカルロ3世と呼ばれることが多い)。再びナポリ、シチリアは一人の王の支配下となり、未だ国制上は違う国であったもののこの時点で両シチリア王国が誕生したともいえます。

カルロ3世は軍事をあまり好まず、カゼルタ宮殿やサンカルロ劇場、カポディモンテ美術館をつくるなど文化的、芸術的な面でも多く貢献しました。1759年にスペイン王カルロス3世として即位すると、ナポリ、シチリアは三男のフェルディナンド1世に託され、ナポリではフェルディナンド4世として両シチリアの王の座に就いた。庶民の食べ物であるスパゲッティを気に入り、(当時は手づかみで食べられていた)それを食べるために4本歯のフォークを発明したとも言われています。

ボナパルト朝による支配

(1806年頃~1815年頃まで)

フランス革命の影響とナポレオンによるヨーロッパ征服はナポリにも及び、1806年にナポレオンの兄であるジョセフ・ボナパルト、その2年後にはナポレオンの妹カロリーナの夫で義弟のジョアッキーノ1世がナポリを治めます。

ジョアッキーノ1世は非常に勇敢な騎兵指揮官でしたが、政治的な外交力などは優柔不断で軽薄だと評価されています。フランスの支配下ではあったものの、ジョアッキーノはナポリの自立と国民の利益を考慮し、近代化を進めたことでも知られています。ですが1814年に自分の地位を守るためロシア遠征の敗北で危機的状況にあったフランスから離反し、1815年のウィーン会議で王位をはく奪されます。

ブルボン朝による両シチリア王国

(1816年頃~1860年頃まで)

ウィーン会議にてフェルディナンド4世はナポリ、シチリアの王位復権をはたし、正式に両シチリア王国フェルディナンド1世と名乗り、ナポリ、シチリアを支配します。

その後フランチェスコ1世、フェルディナンド2世、フランチェスコ2世とブルボン朝は変わっていきます。この時代にはカルボナリや青年イタリアなどを中心に革命運動が盛んに行われました。

イタリア統一

(1860~1861年頃)

イタリアではサルデーニャ王国のヴィットリオエマヌエーレ2世とカヴール首相がイタリア統一を目指し、ロンバルディア、中部イタリアを占領することに成功しました。

両シチリア王国へは千人隊率いるガリバルディがマルサラに上陸、住民の支持も得て連戦連勝を重ねます。ついにナポリにまで到達し、ガリバルディが両シチリア王国を支配します。ガリバルディは地元をフランスに譲渡したカヴールを恨んでいましたが、イタリア統一をヴィットリオエマヌエーレ2世に託し、自分が支配した領土を譲ります。

(実際には国民投票でサルデーニャ王国の下でのイタリア統一への賛否が問われ、99%近くの賛成票が投じられ、そうせざるを得なかったとも言われます。)

翌年1861年に正式にヴィットリオエマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が誕生します。

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