【マラドーナ】ナポリに奇跡をおこした伝説の男とは -Diego Maradona-

ナポリサッカー史を彼なくしては語れない、むしろナポリサッカーは彼のおかげで今も存在していると言っても過言ではありません。

"サッカーの神"とまで謳われたマラドーナの生涯をナポリを中心に振り返ります。

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生い立ち

貧しい家庭に生まれたマラドーナ

1960年10月30日、アルゼンチン首都ブエノスアイレスのVilla Fioritoという、ブエノスアイレスでもかなり貧しい町に生まれます。8人兄弟姉妹の5番目で、4人の女の子が生まれた後の男の子として生まれたため、まさに待望の存在でした。

ボールひとつで楽しめるサッカーはマラドーナにとって最高の遊びで、時間がある時にはいつもボールを使って遊びながら育ちます。11歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズ(Argentinos Juniors)の下部組織でプレーを開始、その後トップチームへと昇格し、15歳という若さで両親や兄弟姉妹の家族を支えるまでになります。

ボカ・ジュニアーズからバルセロナへ

マラドーナの非凡な才能はアルゼンチンのトップリーグでもひと際目立つものがあり、マラドーナ自身ファンであったボカ・ジュニアーズへとレンタル移籍。ボカでも最初から大活躍のマラドーナは瞬く間に大人気のスター選手となり、世界中から注目される存在となります。

そんなマラドーナの次なる移籍先は誰もが知っているスペイン強豪バルセロナ。1982年、当時の移籍金最高額でバルセロナに移籍したマラドーナにはかなりの期待が寄せられました。しかし、そこに待ち受けていたのはスペインリーグの激しいマークと執拗なタックル。バルセロナ在籍時の成績は決して悪くはないものの、激しいマークによる怪我や苛立ちに苦しみます。

1984年コッパ・デル・レイ決勝戦、アトレティコ・ビルバオに0-1で惜敗。試合中激しいマークに見舞われたマラドーナは試合後に怒りが爆発、相手の選手を蹴りつけるなどの大乱闘となります。この事態を受けてバルセロナから問題児扱いとなったマラドーナはバルセロナを去ることとなります。

ナポリでのマラドーナ

ナポリの救世主

バルセロナから追い出される形となったマラドーナにオファーを提示したのがイタリア・セリエAのナポリです。当時のナポリは最下位争いをするようなレベルのチームでしたが、ナポリの人たちは熱狂的なサッカーファンが多く住んでいたため、マラドーナ獲得は町の大ニュースとなりました。

史上最高額の移籍金でナポリへとやって来たマラドーナはイタリアでも執拗なマークにあいますが、次第にイタリアのサッカーに慣れてくるとゴールを量産しチームを牽引、瞬く間にナポリの救世主と呼ばれるようになります。

マラドーナ
ナポリを強豪に押し上げた英雄マラドーナ
マラドーナ
町にはマラドーナを祀った祭壇まであります

輝かしいタイトル

バルセロナでは移籍したシーズンにカップ戦で優勝したものの、リーグ戦のタイトルはとれなかったマラドーナですが、移籍したシーズンにはチームを8位に押し上げ、翌シーズンには3位、移籍から2シーズン後の1986-87年シーズンナポリに61年の歴史上、初となるスクデット、さらにイタリア国内カップ戦・コッパイタリア優勝の2冠をもたらします。

ナポリ在籍中にUEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)でも優勝、1989-90年シーズンには2度目となるスクデットに大きく貢献します。

セリエAへの昇格を争っていたチームをここまで強くしたマラドーナはナポリの人たちから絶大な支持を得ることとなります。また、この頃のイタリアは今よりも南北との間で差別意識が強く、南イタリアを代表するナポリは、ユベントスやミランといった北の強豪クラブのサポーターから「野蛮人」「体を洗え」などとヤジをとばされることも多くありました。マラドーナの故郷であるブエノスアイレスもナポリと似た雰囲気で貧しい土地であったために、マラドーナ自身、南の一員、代表として戦っていたと語っています。そんなマラドーナの下克上の精神もナポリの人たちから愛される理由だと思います。

ナポリ在籍時のタイトル

・スクデット 2回(1986-87,89-90)
・コッパイタリア優勝 1回(1986-87)
・UEFAカップ優勝 1回(1988-89)
・スーペルコッパ 1回(1990)
・セリエA得点王(1987-88)

交際関係

アルゼンチンにいた青年時代から交際していたクラウディアとは2004年に離婚するまで、とてもよくお似合いのカップルだったといいます。マラドーナの夜遊びはさて置き、マラドーナ自ら最愛の女性はクラウディアだという発言を繰り返していました。ふたりの間には2人の娘がいて、次女はアルゼンチン代表のサッカー選手、アグエロとの間に子どもを授かったことでも知られています。

ナポリ在籍中に自宅アパート近くに住んでいたクリスティアーナ・シナグラとの間にも子どもがいるということでちょうどワールドカップ86年大会終了後に大きく話題になっています(シナグラ事件)。当初マラドーナは自分の子どもであることを幾度も否定していましたが、後に認めています。息子の名前はディエゴ・マラドーナ・ジュニアで、現在はビーチサッカーの選手として活躍しています。

クラウディアと離婚してからValeria Sabalaínとの間に娘Jana、Veronica Ojedaとの間に息子Diego Fernandoを授かっています。

カモッラとコカイン

バルセロナ時代からコカインの使用疑惑があったマラドーナですが(本人も認めている)、ナポリに来たことでナポリのマフィア組織カモッラから頻繁にコカインを受け取っていたとされています。

ナポリの町とカモッラは切っても切り離せないほど複雑に関係していて、マラドーナをナポリに呼び寄せた資金源も実はカモッラではないかと言われています。常習化したコカイン摂取が妻であったクラウディアとの関係を悪化させたとも言えそうです。

最終的にはこうした薬物やマフィアなどの関係が影響して1991年にナポリを去ることとなります。

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アルゼンチン代表としての活躍

ワールドカップ86年メキシコ大会

ナポリでの成績も素晴らしく、まさに一番波に乗っている時に訪れたワールドカップ。前評判は最悪で、大会前からアルゼンチン国内では批判が多かったようです。

そんな中アルゼンチン代表は試合をこなすごとに団結力を高めて勝ち上がり、準々決勝のイングランド戦ではサッカー史上伝説となった"神の手ゴール"を決めたり、その直後センターライン付近から"5人抜き"で相手をかわして2ゴール目を決めるなど歴史に残る勝利を収めます。アルゼンチンとイギリスはフォークランド紛争で戦争が終結してから間もなかったため、さながら本当の戦争に行くようだったと選手たちは語っています。

その後のベルギー戦、西ドイツ戦でも活躍し、アルゼンチンは見事2度目のワールドカップ優勝を果たし、マラドーナは大会最優秀選手にも選ばれます。マラドーナのために用意された大会といわれています。

マラドーナ
イングランド戦で選手をかわすマラドーナ
画像引用:wikipedia

ワールドカップ90年イタリア大会

イタリアで開催された90年大会、マラドーナ擁するアルゼンチンは開催国であるイタリアと準決勝で対戦。しかもその会場はくしくも所属チームであるナポリのサンパオロスタジアム

試合前のインタビューでは「おれたちにはナポリの人たちの応援が必要だ。きっとナポリの人たちはアルゼンチンを応援してくれると思う、ナポリの人たちがマラドーナを必要とした時は常に俺は戦ってきたからね」といった趣旨の発言をしたことでイタリア中がマラドーナを敵に回すことになります。

試合は1-1の引き分けでPK戦へ。イタリアの選手がゴールを外し、最後にアルゼンチンのキッカーを務めたのもなんとマラドーナ。マラドーナがシュートを決めたことでアルゼンチンの勝利が確実となり、イタリアのみならず、ナポリまでもがマラドーナにブーイングする結末となりました。

決勝に勝ち進んだアルゼンチンですが、イタリアを敵に回したマラドーナは罵声を浴びせられ、勢いなく西ドイツに敗れます。そしてこの大会を通してできてしまったナポリとマラドーナの溝は意外と深く、コカインなどの問題とともにマラドーナが去るひとつの要因になったといわれています。

訃報

2020年11月25日、全世界に衝撃が走りました。伝説のサッカー選手・マラドーナの訃報はナポリの町に瞬く間に広まり、ナポリをスクデットに押し上げた"神"的存在のマラドーナの悲しい知らせに心を痛めています。

その夜のサンパオロスタジアムでは明かりが灯され、コロナウイルスの影響でロックダウンでありながらもスタジアム周辺にはマラドーナを悼む人が大勢い集まりました。

今も尚ナポリに愛され、これからも愛され続けるであろう英雄にありがとうという想いと、彼の生涯が今後も語り継がれることを願います。

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